diary 2003.01b ■2003.01.15 水 今日の気温はマイナス10度を大きく下回っただろう。大して長くもない通勤路を歩いただけで、剥き出しの耳が感覚を失った。だが、室内に入り徐々に温まってくると、耳も感覚を取り戻してくる。その時、まず戻ってくる感覚は「痛み」だ。チリチリ、チリチリという感じの痛みが、耳に血が通うまでの間、しばらく続く。血が通って痛み出す、というのは耳がまだなんともない証拠だ。指先にしてもつま先にしても、これが痛みではなく「痒み」なら、その部位はしもやけになっている可能性がある。感覚が全く無い場合は最悪の事態、つまり「凍傷」になってしまった状態だという。さすがにその経験は無いが、そう考えると痛みというのも何となく、いとおしいものだ。 冬季に万一、それまで冷たさを感じていた指先やつま先の感覚を失ってしまった、凍傷かも知れない、という事態に陥ってしまった時。その指先やつま先を火にかざしたり湯に浸けたり、とにかく急激に暖めることは厳禁なのだという。どういうメカニズムなのかは判らないが、そうするとその部位が腐ってしまうのだと。ではどうするか。感覚の無くなった部位を、感覚が戻ってくるまで「雪で揉む」といいのだそうだ。そうして感覚を取り戻した後、肌で徐々に暖めてゆく。 これは我々のご先祖様が来道するよりもはるか以前からこの土地に住んでいる人々。その風俗について書かれたある本の中で、ふと目にした方法だ。何となく感心して、今でも頭の片隅に残っている。 帰り道。あと何日かで満月になりそうな月が、高いところで凛と輝いていた。空気も凛としていた。こういう時は空気の透明度も高いのだろうか。普段は街明かりに赤黒く染まっている夜空が、今夜は黒く透き通って見えた。 歩道の両脇に積み上がった雪が、いつの間にか自分の胸くらいの高さになっている。夏場の3分の1くらいの幅になってしまった切り分け道の歩道を、同じ職場の何人かと、並んで歩くことはできないので縦1列になって歩いていた。雪山越しには屋根だけしか見えない車が、赤信号で列をなしている。 「まるで塹壕の中、だな」 歩きながらふと、列の中のひとりがそう言った。言われてみれば、これは似ているのかも知れない。 ■2003.01.17 金 昨日今日と太平洋沿岸のとある町へ、今年初の泊りがけ出張だった。太平洋側は元々雪が少ないのだが、今年はもっと少ないようだ。雪は路肩に多少積もっているだけで、道路はずっと夏道のような乾燥路面が続いていた。 前に住んでいた町を抜けるルートで海岸部へ出、馬牧場(飼われているものによって牛牧場、羊牧場、熊牧場などと使い分けている)が続く海岸の国道を走る。産出馬の名を記した牧場の看板がずらっと並ぶ道。柵に囲われた放牧地が延々と国道の両側に広がる。夏には国道脇にもサラブレッドがいっぱい放されているが、さすがに冬はその姿が疎らだ。 助手席から外を見ながらふと「鹿でもいないかねぇ」と呟く。車中には自分を含めて3人いたが、運転していた人が答える。「牧場の中に鹿混じって草喰ってても、あんまり違和感ないっスよね」 それを受けて後席のもう1人が続ける。「そういえば、いたよな。馬と鹿間違えた…馬鹿」 ああ、いたいた。そんな「馬鹿」。あれ、この辺じゃなかったっけか、と、車中が盛り上がる。去年の何時だっただろう。鹿と間違えて放牧中の若い競争馬を射殺した本州のハンターの話。当時はワイドショーでも「これこそ本当の馬鹿」と騒がれていたけれど、その後彼らは一体どうなったのだろう。最初その話を聞いた時は、「馬と鹿を間違えたなんてそんな馬鹿な」と誰もが思って、…いや、実はそれは言い訳で、本当はライバルの牧場に雇われたヒットマンが、その牧場の将来有望になりそうな若馬を射殺したのだ! などというドラマのような話も思い浮かべたりしたのだが、彼らは本当に「間違えた」だけらしい。間違えた理由は「暗かったから」らしいが、暗い時間帯の発砲は確か禁止のはず。牧場の馬を射殺したのだから、発砲場所も恐らくは狩猟区域の外だろう。 前にも書いたが、競走馬は高くつく。彼らの賠償額がどれほどになったかは知らないが、恐らくちょっとした家1軒が建つくらいの金額にはなっただろう。しかも、事故ではなく犯罪なら賠償は全ては自腹。保険は適用されない。彼らこそ本当に、馬1頭で人生をダメにしてしまった人物、かも知れない。 それにしても。照準を合わせた相手の顔の確認もせずに、反射だけでよく生き物を撃てるものだ。ゲーセンの射撃ゲームでもあるまいし。スコープの中にターゲットの表情をとらえてから「アーメン」と呟き、それからゆっくりと引き金を絞るヒットマンの方が、まだ「獲物」に対しての人間味があるのかも知れない。彼らの意識の中では鹿もただ、動く的に過ぎなかったのだろう。 昨夜の宿泊先でつけたテレビの天気予報で「札幌は今夜半から明日にかけて大雪…」とやっていた。そうして帰り着いた札幌は、吹雪の真只中だった。 ■2003.01.18 土 夜遅くに友人2人と立ち寄った、ススキノ近くのラーメン屋の中。後ろの席で大声で交わされている会話が可笑しくて、何度か麺を鼻から噴出しそうになった。その会話というのは早い話、男同士で交わされる「浮気話」だ。内容は想像に任せるが、殆どその数を競う自慢話のような内容。本人達もそう思っているのだろう。周囲に聞こえる事を気にしない、というよりは、わざわざ周囲に聞こえるように大声で話しているような感じもした。 その中の1人がもう1人の相手に冷やかし混じりで言う。「オマエ、それ、同じ人間として信じられないわ。いや、許せない」 そう言われた方が大笑の後にこう答える。「でもほらぁ、そういうのってオスの性だしさぁ」 それから何やら動物がどうのこうの、本能がどうのこうの、と、浮気の定義(というよりは正当化)についての小難しい話になった。 オスの性…ねぇ。どう思う? こちらのテーブルでも話が始まる。「いや、会話の内容は高度なんだけど、語られてる中身がねぇ」「何でそんな難しい話になるかな」「きっと彼ら頭いいんだよ」「頭いくても話はバカだわ」「何かつまらんことアピールしてるねぇ」…以下略。どうせ酔っ払いの会話なので、それ以降はさほど気にも留めずに店を出た。 それにしても、「浮気はオスの性」というのが何だか可笑しい。動物の世界でも浮気はオスの本能だ、みたいな話を彼らはしていた。まぁ、これは「浮気は男の甲斐性」と同じくらいよく聞く話だが、実際はどうだろう。 「浮気性のオス」のイメージにピンとくる動物を、あれこれイメージしてみる。浮気の前提としてオスメス1匹づつから成る「夫婦」や「つがい」が必要だから、そうした関係を持たない動物をまず省く。そうするとそれだけで、世の中の殆どの種の動物が対象から除外されてしまった。…あれ、「つがい」をつくる哺乳類って意外と少ない。思いつく限りでは、哺乳類は大抵が1頭のボス格のオスから成るハレムを構成するタイプか、オスは殆ど行きずりでメスだけが子育てをするタイプだ。「つがい」をつくる動物なんて、鳥くらいしか思いつかない。でも、スズメはどうか知らないが、タンチョウやシマフクロウやペンギンなどは1度つがいになった相手と一生添い遂げるというし…。 結論。同性の自分が言うのは何だが、浮気は決して「オスの性」ではない。そういったオスは動物界でも人間界でも(倫理的に多分)、ごくごく少数派だ。それに、動物の交尾と、人間が浮気相手とするセックスとは、元々の目的の次元が違う。動物界の論理でそんな人間の行動を説明しようというのが、そもそも無理なのだ。 彼らも動物がどうの本能がどうのと小難しい言い訳や定義付けなどせずに、素直に「人肌が恋しい」とでも言うべきだっただろう。とにかくそれは「あなた方の性」であって、決して「オス全般の性」では無いのだ。本当にいるかどうかも判らない動物の本能に説明を求めるよりは、シマフクロウの本能を見習うべし。 浮気に限らず、人間が取るある行動に対して、時々「野生の本能」みたいな説明がなされる事がある。いじめだとか、戦争だとか、そういう事に対しても。それらは時にもっともらしい人が言って、もっともらしく聞こえてしまうのだけど、ひょっとしたらそうした説明の多くは「本能」という言葉を傘に着せただけの、意外と脆い正当化の論理に過ぎないのかも知れない。 …というより、人間なら普通は言わないだろう。 「どうしてそうするの?」 「いやぁ、他の動物がみんなそうしてるから!」…だなんて。 ■2003.01.19 日 朝の4時半頃に1度目が醒めた。カーテンの外が薄明るい。ちらっと捲ってみると、窓の外が白い。これは雪だな。窓を少しだけ開いてみる。だが、外側の窓の内側はびっしりと霜に覆われていた。霜の上に人差し指を立てて霜を融かし、指先サイズの小さな覗き穴をつくり、そこから外を覗いてみる。融けた水が滲んで、レンズを覗いたようにぼやけた外の世界は、はっきりとは見えなかったが、やはりぼやっと白かった。 寝直す。目醒めたのは昼近くだった。ストーブのタイマーをセットしていたので、起きたばかりでも部屋の中は暖かい。ストーブの後ろのカーテンを開ける。窓の下半分は霜に覆われていたが、上半分は曇っていただけだった。窓を拭って外を見る。雪が降り続いている。下を見ると、どかっと雪が積もっていた。 車の雪下ろしと周囲の雪かきを終えてから、車で街へ出る。交通量の少ない道はただの厚雪だが、交通量の多い道は厚雪が磨かれたツルツルの路面。摩擦係数ゼロの恐怖の路面だ。ブレーキを踏んでも停まらない。1度停まったらなかなか出られない。信号が赤から青に変わったけれど、前の車が動かなかった。信号を見落としているのかな、と思ったが違った。前には動いていない。でも、車の後部だけがズルズルと横に水平移動している。FR車だ。下を見ると後輪がグルグルと激しく空回りしている。でもそんな必死の空回りも車の尻を振らせるだけで、ちっとも前には進んでいない。 冬道には慣れていないドライバーなのかも知れない。なかなか発進できないドライバーの焦りが、車を見ているだけでも伝わってくる。何とか勢いで出ようと、何度も何度もアクセルを吹かす。でも車は斜めにその角度を増してゆくだけ。焦るドライバーにとっては長い時間だっただろう。でもおよそ30秒くらいで、ようやく車は前へと進み出す。ギアをセカンドに入れて待機していたこちらも、そろそろとその後をついて発進する。 不思議なもので、車は意外とその動きから、運転者の心理を正確に外へと伝える。ちょっとした挙動、車間の取り方、走りのペース、後ろについた時、あるいは後ろにつかれた時の反応…そういったものから、苛立ち、弱気や強気、図太さ、焦り…といった運転者の感情が伝わってくる。 街中を走っていて一番感じるのが「苛立ち」だ。街中の混雑する路線を走っていると、周りの車が皆苛立ちを募らせているように見えてしまう。強引な右左折、割り込み、赤信号突破にフライング。そして何よりも容赦なく発せられるクラクションの多さ。自分は人や他の車に向けてクラクションを鳴らしたことがあっただろうか。あったかも知れないが、思い出せない。人との別れ際や、路肩から飛び出そうとしている狐や鹿に対しては何度もププッとやっていたけれども。 ようやく慣性がついて走り出した前の車が、少し進んだところで、ウインカーを出すことも忘れたまま交差点を左折していった。かなり慌てたな、と感じる。前の車のドライバーにとっては、後続の自分がプレッシャーだっただろうか。それほどのことでは無いのに。 苛立たせないように。「ププッ」とやられないように。街中のドライバーの心理は、ひょっとしたらそういうものが多いのかも知れない。街中の無数の苛立ちが、多くの人の間に無用の焦りを生み出しているような…ふと、そんな気がした。 ■2003.01.20 月 かつてこの職場でも何人かが「電気刺激でラクして腹筋鍛えようマシーン」を買ったのだが、それからもう数ヶ月が経過したけれど、その買った人のうち腹の引っ込んだ人が誰一人いない事に気付いた日。買った人の話によるとあれはマッサージ器みたいなもので、しかも、人間の体というのは継続して同じ刺激を受け続けていると、次第にその刺激に対する反応が鈍くなってゆくものらしい。やっぱりラクして鍛えることなんてできないよ。まぁ、そうだろう。ラクして体を鍛えようという考え方には、意思の力が感じられない。体を鍛えるということは意思を鍛えることと同じだと思う。「ラクして…」と考えた時点で、それはもう既に挫折しているのと同じだ。その気持ちを超える事ができてはじめて、人は何かをやり遂げることができる。 日中はいい天気になって空は晴れ渡ったが、気温はそれほど上がらなかった。冷え込みが続く。部屋の中で一段と火力を増しているストーブが大活躍だ。ストーブの上にはやかんが載せられているので、そこでは常にお湯が沸いている。パンも焼ける。食パンがあるので夕食にそれをストーブの上で焼いて食べた。だが、どうしてもストーブの上だと「パンを焼いている」という事を忘れがちで、しかもストーブはオーブンよりも火力が強いので、新聞を読んだりテレビに見入ったりしているうちに、つい焦げパンにしてしまう事が多い。焼き上がっても「チン」という音はしないのだ。いつも、匂いで焼き上がっている事に気付かされる。でも、それはそれでいいのかも知れない。匂いや見た目よりも、時間やそれを知らせる音で、という料理の仕方があたりまえの生活においては、こういうのもたまに。 そうして「パリッと焼けた」ではなく「ガリッと焦げた」パンに、かのヨーグルトを塗って食べる。食パンやフランスパン+ヨーグルト。これが最近のお気に入りで、夕食にもちょくちょく登場する。コーヒーを付けると、まるで朝食のメニューなのだが。 ■2003.01.21 火 とても消化しきれないノルマを巡って、上役と3回衝突する。1度目は電話、2度目は怒鳴り込まれ、3度目はこちらから出向く。3度目は長引き、終礼で皆が集合する中、ドア1枚を隔てた部屋の中でずっと激論していた。その上役、というのが何にしろ声が大きい人物なので、ドア越しにそのやりとりを聞いていた人の話では、こちらが一方的に怒鳴られていたように聞こえたらしい。そして、終礼時刻を廻っても部屋から出てこない2人。集合した面々が漏れ聞こえてくるやりとりに耳をそば立て「おい、あいつヤられてるよ…」とひそひそしているような状態だ。でも、実際はそうではなく、終盤はこちらが説明する「消化しきれない」というその理由に、上役も「うーん…」と唸っていた状態。そこでこちらからノルマを下方修正した折衝案を出し、じゃあそれで1度検討してみよう、という回答を得ていたところだった。 結局、上役はその下方修正したノルマを了承し、こちらもそのノルマを最低基準として、更に上積みできるよう努力する…という、双方68点くらいの所で合意する。上役の後ろをついてドアを出ると、そこに居並ぶ顔が皆こちらを見た。とりわけ心配そうな顔をした同じセクションの面々と目が合う。上役の背がこちらを向いている事を確認してから、そちらを向いて親指を立て、ニヤリ。でも、今日はこれで1日が潰れた。 帰ってから読んだ新聞の朝刊に載っていた、一編のコラムに目が停まる。東京で42年間過ごしたという大陸生まれの作者が、『東京は死ぬまで暮らす所ではないな』と思い決め、北海道へ移住を決意した…という話。そして、その作者が北海道での移住先と定めたその土地というのが、自分が正月に帰省してきたばかりの、自分の故郷だった。 その土地の価値。見失う者もいれば、新たに見出す者もいる。誰かが見切りをつけた地に、新たに住もうと志す者もいる。まるで…そう。入れ替わるように。 まぁ、「死ぬまで暮らす所ではない」かどうかは、行ってみてから決めること。 ■2003.01.25 土 泊りがけの仕事から帰ってきたばかりの昨夜に友人の来訪を受ける。「酒飲みにきたぁ」と。…うん?そういえばオマエ前に来たとき持ってきたジャックダニエル、まだどこかに残ってたんじゃないべか。と捜そうとすると、「いいよ、ビール買ってきたから」と言ってビニール袋の中身を取り出す。俺の分は、と訊くと「ちゃんと買ってきた」。そう言って2缶のビールを取り出しドン、と置き「今日は飲ませに来たから」と。一瞬バドワイザーかと思って驚いたが、よく見るとブローリーだった。アルコール分0.9パーセント以下。ノンアルコールビールだ。…仕方ない、付き合うか。ノンアルコールにしろビール自体あまり美味しいとは思わないのだが、まぁその気遣いに乾杯。 アルコール分0.9パーセント以下といっても、2缶も飲むとそのアルコールに体が反応を示す。胸のあたりにちょっと違和感。気道が細くなったような感じもする。ああ、やっぱり判るわ。そう言うと彼に「違う意味で凄い」と感心されてしまった。 自分にとってアルコールは毒だ。何にしろこちらはケーキでも酔ったことがある。正確にはその中のラム酒やリキュールに。アルコールとは全く無縁そうな菓子パンなどを食べていても「うっ」と感じることがある。昔、厨房で働いていた時、そこでは色々な料理に、結構な量の「アル何とか」という名前のアルコール系の食品添加物が使われていた。これは多分、そうして使われているアルコール分に反応しているのだろう。恐ろしいことに、意外と多くの食品にアルコールは含まれている。駄目な人は普通の人からは考えられないほど、こうしたことには敏感なのだ。まぁ死にやしないが、とにかく、子供の頃キュウリの粕漬けを丸かじりして具合が悪くなったような人間にとっては、アルコールは毒以外の何物でもない。 今日になって、冷蔵庫には余ったビールが1缶。流し台の下から発掘したジャックダニエルも、結局手は付けられずにそのまま残された。「持って帰れ」と帰り際の彼に言う。「いや、キープしといて」彼が答える。…またのご来店を、か。 ■2003.01.27 月 日が暮れるのが早いから、夜の商店街を歩いていると、この時間。閉店間際の店々。ウィンドウ越しに明るい店内が良く見える。昼間はただ素通りしてしまう小さな店々の、その店の中。スーパーのレジには並ぶ人も疎らで、窓際のカウンターで何人かの客が買ったものを黙々と、かごから袋へと詰め替えている。レジに立つ女の子が2人、ずっと通路越しに向き合ってお喋りを続けている。携帯電話の販売店のカウンターには若い男がひとりぽつんと俯いて座っている。小さなパン屋の中には店員の姿も見えなくて、ただその奥まったところの暗い入り口の向こうで、微かに人の影が動いているだけ。路上に停まった車から一瞬の吹雪の中を抜け、銀行へと駆け込んでゆくおばさん。ATMと向き合ってから、肩に僅かに付着した雪を払う後姿。銀行を通り過ぎると、曇ったガラスの向こうで片付けに入っている八百屋の夫婦。吊り下げ電球の光の下で、1人の客とずっと親しげに話し込んでいる、魚屋のおじさん。 辺りが吹雪く中、午後7時の商店街を歩いていた。この時間は昼間より、店の人柄がよく見える気がする。 ■2003.01.28 火 それでも少しだけ、日が長くなっているのだという事に気付いた日。気温がぐっと上がって、昨日少し積もった雪が昼間の間にぐっと重くなった。凍っていた雪もザクザクになっていたので、今日なら地面を掘り出せそうだ。帰ってから駐車場の雪かきをして、これまで氷に覆われていた路面を出す。プラスチックのスコップを振るうだけで、隣との境目を示す白いラインが久しぶりに顔を出した。停めてあった車のタイヤの位置にズレもなく、ライン際にぴったりと納まっている。やはり目印というものは複数持っておくべきだ。足元に引かれたライン以外にも。そうしておくと、こういう時期には非常に助かるものだ。 今年は雪が少ない少ないと思っていたのだが、例年ドカッとくるものがダラダラと続いていただけのようで、トータルすると例年とさほど変わらないようだ。何だかんだ言って結構、排雪スペースが限界に近づいている。雪かきをする際は人によって、除雪した雪を取りあえず手近な場所から捨ててゆく者と、先を見越して時期の初めの内に積もった雪は遠くから捨ててゆく者とがいる。この時期になるとその両者の差がはっきりと判る。特にこうした何十台もの車が1列に並ぶ駐車場のような、多くの人のそれぞれの雪かきの仕方を一望できる、こうした場所では。 切り立った崖のような雪山を背負う車と、まだまだ雪が積めそうな、なだらかな雪山を背負う車とがある。雪山を見ているだけで何だか人を見ているようで可笑しい。 で、自分はというと、切り立った雪山の真中に、スノーダンプで雪を遠くへ運び捨てるための1本の「切り分け道」を拓いている、そういう雪かきの仕方をしていた。 ■2003.01.30 木 保守派と改革派の対立、というのはある規模以上の組織には必ずあるのだろう。この職場にも確かにそういった対立の構図がある。長くいる者はできる限りこれまで馴染んできた自分なりの仕事の流れやペースを崩したくない。だが、外からこの職場に転勤してくる者の中にはそうした仕事の流れやペースの中に多々不満な部分を見出す。2年前に自分が転勤したのと同時期は、この職場始まって以来の人事上の大きな入れ替えがあり、どうしてかそうした改革派が多数流入してきた。なのでこれまではずっと改革派の押せ押せムードが強かったのだが、最近になってその状況に少し変化が生じている。最近交替したばかりのこの職場のトップが、どちらかというと保守派寄り…というよりは、改革派と反りが合わない人物なのだ。 今日、そのトップと改革派のある上役とのやり取りを、間近に見る機会があった。上役というのは自分がいる所を含む幾つかのセクションを統括している人物で、こちらにとっては直接の上司でもある。 「規則は守られるべきものだ」とトップが言うと「現状に合わないのなら規則を変えるべきだ」と上役が言う。「しばらくは今の職場の和を重んじるべきだ」と言うと「動きの悪い部門の人間は積極的に配置換えすべきだ」。「そういう強圧的な改革が職場の雰囲気を悪くしている」と言うと「これまで何度言っても変わらないから強圧的になるのだ」。と、話は全くの平行線。…感情を抑えた静かなやり取りながら、激しく火花が散っていた。恐ろしいやり取り。怖い怖い。 聞いているとどちらの言い分にも一理がある。トップの重点は和にあり、上役の重点は効率にある。ただ、直接の上司だから言う訳ではないが、どちらかというと上役の言うことに分があるような気がしていた。規則というのは、あまり頻繁に変えられても困るものだが、時が経つと規則が作られた時代の状況も変わる。実際に変えるかどうかは別にして、変えるための議論は常に行っていい。決まり事を「守る」のは当然だが、決まり事そのものを「護る」必要は無いのだと思う。「和」についても、今現在の「和」と人員入れ替え後の「和」。それの比較が不可能だ。ひよっとしたらもっと良くなるかも、悪くなるかも知れない。それはやってみなければ判らない事。で、強圧的な改革が職場の雰囲気を悪くしているかどうか…は、感じ方がその人その人の立場によって違うから、一概には言えない。トップが職場全体の和を重視するのは当然で、その言い分も判る。が、果たしてその和の中に、こちらもまだ2年目に満たない自分が含まれているのかどうか。そういう気持ちも多少あった。 そう言っている自分には、倣うべき前例も、打破すべき前例も無い。転勤と共に就いたのが全くの新設部門だったからだ。自分が唯一の前例。それはそれで大変なのだけど、こういう保守・改革の対立を見ていると、自分は気楽でいいのかも知れない。 …さて。今後自分の仕事が倣われるのか、打破されるのか。それは判らない。でも、レールを敷いているつもりは無い。今の仕事は後にとって、大いに踏み外して結構な道であっていいと、そう思う。 ■2003.01.31 金 雪が積もった朝、出がけには必ず外を見る。ベランダ越しの窓からは通勤経路が見渡せるので、歩道に除雪が入っているのかどうかを、そうして確かめる。歩道に除雪が入っていれば、冬とはいえ革靴での通勤が可能だ。だが、そうではない場合。ふわっと積もった状態なら、丈がくるぶしの上くらいの冬靴を履く。でもやはり背広通勤には革靴だ。丈の高いその冬靴だと裾が膨らんでいまいちなので、なるべく革靴を履くようにしている。ただ、これは除雪が行き届いた街中だからこそ、可能な格好でもある。 今朝は靴の選択に相当悩んだ。昨日も少し雪が降ったのだが、出がけに外を見たところ、歩道の雪は除雪されていた。でも、予報がこれから大雪になる、とのこと。さて、靴をどうしようかねぇ。冬靴か、でも大雪になるなら長靴だ…などと思いつつ、結局まだ大雪にはなっていないから、と革靴を履いて出る。結果的にはこれが大失敗で、帰り道はおよそ30センチ程の雪に覆われていた。先に歩いた人の足跡を辿ってゆけばよさそうなものだけど、激しく降り続く雪は、歩道の上に前の人が残した足跡をあっという間に消してしまう。 なので帰り道も革靴のまま、ひたすら雪の中をガッポガッポしながら歩いてきた。もう、靴の中もズボンの裾もわやくちゃ。でも、この雪の深さなら冬靴でも同じ事だっただろう。こういう時はやはりゴム長靴が一番なのだが、上が背広というのがまた面倒なもので、なかなかそれを選べない。 まぁ、選択の余地が無い状況もたまにはあるのだが、今冬はまだそれが無い。 |